どーも!げいのう太郎です!
夏の甲子園も終わり、ドラフト指名の選手も決まりおめでたいニュースが駆け巡りましたね。
そんな中、現在現役選手で活躍している松坂大輔選手や筒香嘉智選手以上の実力を持つと言われた選手がいるのをご存知ですか!?
横浜高校史上最高の天才と言われた丹波慎也選手です!
今回は、そんな丹波慎也選手のプロフィールなど色々調べてみたいと思います。
※2019年4月21日の『消えた天才』ではあのイチローのライバルが登場・・・!
丹波慎也(たんば しんや)のプロフィールは
プロに転向すれば、確実に実績をあげられたはずの丹波慎也選手。
そんな彼の簡単なプロフィールをご紹介します。
名前:丹波慎也(たんばしんや)
生年月日:1978年
身長:184㎝
→高身長!アスリート体型ですね!
体重:82㎏
出身高校:横浜高校・野球部
横浜高校野球部の歴代ナンバー1選手と言われた丹波慎也選手。
50年以上横浜高校で野球を教えてきた監督
渡辺元智監督も
「50年の指導歴の中でナンバー1」と語った程だとか。
50年も指導してきて、一番と言わしめる丹波慎也選手。
それほど凄い才能の持ち主だったんですね。
渡辺元智監督の教え子は経緯はどうあれ40人以上がプロ入りしています。
その中でも1番だと言うのです。
いかに期待されていたかがわかりますね。
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松坂大輔以上の天才と言わしめた実力とは!?
その実力は、横浜高校野球部の監督を長く務めた渡辺元智監督さえも認める程だった丹波慎也選手。
後輩にあたる、怪物松坂大輔選手たちとはどこが違ったんでしょう?
まず、丹波慎也選手は細かな技術的なことも優れていたんだとか。
同年代で、あれ程慕われた選手は他にいないと言われる程でもあったそうです。
体格も身長184㎝、体重82㎏とかなり仕上がっている印象です。
その優れた才能は他にも伝わっていたようで高校2年生の時点で、プロや社会人から注目される程。
余程、ずば抜けていたんでしょうね。
各々が自分のチームに欲しがったという証ですよね。
こんな選手がプロ入りしていたら一体どうなっていたんでしょう?
今季のドラフト指名の根尾選手のように色々な球団から引く手あまただったんじゃないでしょうか。
丹波慎也選手は上地雄輔とも交友が!?
当時、丹波慎也選手より1歳年下だった上地雄輔さん。
中学3年の夏、幾つかの野球推薦の話を貰っていた上地雄輔さん。
そんなある時。
家族で甲子園の大会、横浜高校VS横浜商工高校の試合をテレビで観ていた時
終盤で横浜高校はピッチャー交代。
出てきた人はモデルのようなスタイルの背番号「11」の男前。
その男前の活躍は凄まじく、次々と三振をとり横浜高校のピンチを救ったそうです。
キャッチャーだった上地雄輔さんはこの人のボールを受けたら、どんな感触なんだろう?
と、いつの間にかそればかり考えたそうです。
そして衝撃的だったのは、その男前が1年生だったこと!
この時、一緒にプレーしたいという気持ちが沸き上がり
今まで迷っていた進路でしたが(その中に横浜高校はありましたが除外していました)
口から出た言葉は「俺、横浜高校に行く」でした。
そして横浜高校へ進学。
上地雄輔さんの進路に丹波慎也選手は大きな影響を与えたのですね。
入学してから上地雄輔さんの中での丹波選手は想像を超えてカッコ良かったんだとか。
初めて会った際に「おぅ!お前が上地か。よろしくな♪」と言われスーパースターが自分のことを知っててくれたことに舞い上がりました。
そして小便がもれる程の衝撃だったそうです。
ピッチャーとキャッチャーの関係だったこともあり丹波選手とは一緒にいる機会も多く、色々教わったんだとか。
上地雄輔さんが1年でいきなり練習試合に出された時のピッチャーも丹波選手。
相手は横浜商工高校。
そのピッチャーは中学時代、バッテリーを組んでいた相手だった。
お互い1年で同じ日にデビュー。
夢を見ているようで試合は勝ちましたけど、9回終わるまでの記憶はなかったそうです。
試合後、丹波選手が「凄いよかったぞ」と褒めて頭をクシャクシャにされた際には大便がもれそうになったとかw
キャッチャーということもあり、可愛がられていた上地雄輔さん。
自分が女だったらどれ程遊ばれてもいいからそばに置いてほしいと思う程だったそう。
そんな丹波選手の間近にいられることは上地雄輔さんにとって誇りだったとか。
モデルのような体型で、女の子に騒がれても黙々と練習をしマスコミに撮られても淡々と受け答えをし、成績もトップクラス。
そんな丹波選手を上地雄輔さんは丹波兄ちゃんと慕っていたようです。
とてもクールで、外見だけでなく魅力的な存在だったんでしょうね。
男が男に惚れるということは中々ないですからね。
上地雄輔さんの人生を変えたと言っても過言ではないでしょう。
現在は何をしている!?衝撃の結末が・・・
そんな男さえも惚れさせてしまう丹波慎也選手は現在どうしているのでしょう?
・・・実は17歳で亡くなっています。
チームの大黒柱となっていて、期待も膨らんでいた時期。
そんな丹波選手はいつも通り練習を終えて帰宅し
1995年8月17日。
寝ている間に急性心筋梗塞で亡くなったそうです・・・
亡くなった当日も部員のみんなは
「丹波さん遅刻か?」
などと言っていた所合宿所に集められ亡くなったことを知らされたそうです。
しかも、翌日から秋季大会の予選の直前というタイミング。
突然、チームの大黒柱を失う結果となったのです。
それでも横浜高校は丹波選手のユニフォームで作ったお守りを手に試合には出場。
丹波選手の母親が
「何としても慎也のためにやってくれ」
「慎也からそういう声が聞こえた。やって下さい」という懇願もありました。
秋季大会を勝ち進みましたが選抜では初戦敗退。
それでも1996年
夏の全国高等学校野球選手権大会にも参加し甲子園出場。
残念ながら3回戦敗退してしまいますが横浜高校・野球部は丹波選手のために戦い続けました。
丹波慎也選手には4歳上の兄・丹波幹雄さんがいます。
丹波慎也選手と同じく1年から期待されていましたが
肘の故障で2年生の春に退部。
丹波慎也選手が亡くなる直前
「キャッチボールに付き合ってくれ」と頼まれ相手を務めた際に
「まだやれるじゃん」と言われ後に幹雄さんが野球を再び志すきっかけとなりました。
慎也選手の遺志を継ぐため、肘の手術をし慎也選手が亡くなった翌年の1996年から野球を再開。
1998年のドラフト会議でヤクルトスワローズに8位指名され投手として入団します。
弟の慎也選手を凌ぐ体格(身長193㎝・94㎏)と恵まれた体格でしたが高校時代の怪我もあり、一軍で投げられる機会はなく2002年に戦力外通告を受けてしまいます。
それでも、弟の叶えられなかったプロ入りを果たしたと人気漫画「タッチ」のようだと語り継がれています。
まとめ
今回は17歳で悲劇の死を遂げた丹波慎也選手について調べてみました。
監督からも逸材と認められこれまで輩出した選手の中でも1番だと言われている丹波慎也選手。
技術的にも人間的にも優れた人だったんでしょうね。
野球をやっていた人、何人に影響を与えたんでしょう?
上地雄輔さんも魅せられたその1人だったんですね。
前の日まで普通の日常を過ごしていたのに突然それを奪われることは、想像を遥かに絶します。
まだ高校生だったのですから信じられない気持ちの方が大きいですよね・・・
兄の幹雄さんの頑張りも素晴らしいものがあります。
例え一軍でプレイできなくても慎也選手の果たせなかったことを成し遂げたのです。
この話が、リアル「タッチ」と語り継がれるのも
納得がいきますね。